2019年12月03日

カニかまの“赤色”は「コチニールカイガラムシ」。

以前、スターバックスが、フローズンドリンクや菓子類に虫から抽出した着色料を使っていたとして問題になった。現在は使用中止を宣言し、他の着色料を使っているようだが。たまたまスターバックスが公にしたことで注目を集めたのだが、食品業界でこの“虫”を使うことは常識である。

“赤色”の着色料として、もっとも使用されているのがこの虫で、サボテンに寄生する「コチニールカイガラムシ」と言う。ネットでその画像を探してみて欲しい。その姿に、食欲は失せてしまうだろう。

ハムやカニかま、ジュース、アイスクリームなど、“赤い”食品に多く使用されている。これを知ってしまうと、誰もが口に入れることを躊躇するだろうが、よく考えれば、虫なので天然着色料なのである。

イナゴや蜂の子など、虫を食べる文化は元々あるのだから、それほど神経質になることもない。それよりは、石油から作られている合成着色料の方が、はるかに危険である。

そうは言うものの、確かに気持ち悪さは拭えないので、できれば植物に代えて欲しいところではあるが…。

もし、ハムやカニかまの“赤色”がなくなってしまったら、どうなるだろう? 火を通した肉の色でしかないハム。白いカニかま。決して美味しそうには見えない。おせち料理から、紅白のかまぼこがなくなったら?

世の中には“赤い”食品が多く存在するので、なくなると淋しい食文化になりはしないだろうか。

他にも、かき氷の「イチゴ」シロップには、この虫の着色料がよく使われている。こう書いてしまうと、小さな子どもを持つお母さんたちは「イチゴは食べちゃダメよ!」と言い出すだろう。あの、真っ赤で美味しそうなかき氷が消えてしまうかもしれない。

虫ではない何かを見つければ良いのだろうが、もっとも美しい色を出し、自然にあるものを探した結果が、この虫なのだろう。プロの結論なのだから、それ以上を求めることは難しい。他の手段となると、合成着色料になってしまう。

こうなると、「自然の虫」か「危険な合成物」かの選択しかない。

そのどちらも選択したくないというのなら、加工した食品を買わないことだ。「虫を使っているなんて、許せない」と言う人が結構いるが、ならば、すべてを自分で手づくりすることだ。

スーパーで売っている、安くて美味しい食品には、何らかの安い理由がある。そこをもっと勉強して、自分の眼を養うことが必要である。

庶民だから高いものは買えない、と言うのなら、あまり神経質にならず、バランスの良い食生活だけを考えれば良いのではないか。気にし過ぎては、生きていけない。

posted by 佐藤きよあき at 09:26| Comment(0) | マーケティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月26日

ネットの価値は、“無料でどこまでできるか”にある。

ネットに流れる情報は、基本無料。だが、この図式では儲けにくくなってきたので、ネットコンテンツを有料化する動きがある。

現在も有料サイトはあるのだから、“それが増えるだけ”と捉えることもできる。金を払ってでも得たい、と思う価値がそのコンテンツにあるのなら、何も問題はない。

だが、有料化という流れがネット界にできてしまうと、“右へならえ”で、中身のないコンテンツまで有料化してしまう可能性がある。

本当に中身がなければ、自然淘汰で消えていくだろうが、中身があるように見せかける詐欺まがいのコンテンツも出てくるだろう。言葉巧みに価値が高いように錯覚させて、有料であることを当然のごとく思わせるのである。

そうなると、ネットが気軽に使える道具ではなくなってしまう。調べものも情報発信もショッピングも、すべて無料でできるからこそ、人びとの暮らしに根づいているのではないのか。暮らしを便利で快適なものにすることが、ネット普及の前提条件ではなかったか。

また、無料の情報提供をしながら、どうやってビジネスとして成立させるかが、ネットに携わる者の腕・テクニックではなかったのか。そこに、頭脳・アイデアを集積させることが、ITビジネスの面白さだと思うがどうだろう。

有料化は、安易な発想だと思う。無料にするための努力を怠っている。有料のサービスを提供するだけなら、販売のためのメディアが増えたに過ぎない。

ネットの価値は、それほど低いものではない。もっと大きな可能性を秘めている。それを探り出すのが、ITビジネスにチャレンジする者の使命であり、楽しさ・面白さだと思う。

有料化は、それを放棄しているようなもの。無料でどこまでやれるのか。そこにチャレンジして欲しい。

有料化に取り組む本人たちは、新しいビジネスモデルを模索しているつもりらしいが、手っ取り早く儲かる方法を探っているだけに見える。そこには、画期的なアイデアなど、生まれはしない。

posted by 佐藤きよあき at 08:49| Comment(0) | マーケティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月19日

すねかじりには、マナーがある。

住宅購入の際に「親から援助してもらう」という人が、4割もいるという。

「いい大人が親のすねかじりか!」
「情けないと思わないのか!」
「夢は自分たちで叶えろ!」

そんな厳しい声が聞こえてきそうだ。ならば、批判する人たちに問いたい。もし、親が亡くなったら、遺産は貰わずに放棄するのか?

そんな人は、まずいないだろう。“貰えるものは貰う”ではないのか。生前に貰うか、亡くなってから貰うか。その違いだけで、それなりの大金が手に入ることに、何ら変わりはない。

確かに、家が欲しいからと親に甘えるのは、自立している大人としては抵抗があるかもしれない。だが、親が快く出してくれるのなら、“おねだり”するのも親孝行のうちである。

子どもがいくつになっても、子どもは子ども。可愛い存在であり、さまざまな場面で助けてやりたいと思うものである。

子どもが大人になって、何でも自分でこなすようになってくると、頼もしく感じると同時に、もう自分たちの助けは必要ないということに、淋しさを覚えるものである。

子どもが泣きついてくれば、「しょうがないなぁ〜」と言いながらも、頼られていることが嬉しかったりする。それが、親というもの。まさに、親バカなのである。

お互い立派な社会人なのだから、甘えたり、甘やかしたりするのは、どうかと思う。だが、親子の絆とも言うべきものは、他人には理解できないものである。

もちろん、遊ぶ金をねだる子どもは、突き放さなければならないが、家族の砦を築く金ならば、援助してやっても良いのではないか。当然、できる範囲のことで良い。無理をしてまで助けるのは、“甘やかし”である。

結論としては、「出してもらうわけにはいかない」と、肩ひじを張る必要もないし、恥ずかしいことでもない。他人がとやかく言うのは、単なる妬みだと思えば良い。

親のすねは、一生かじっていれば良いのである。ただし、親が痛がるようなら、直ちにやめなければならない。それが、すねかじりのマナーである。

posted by 佐藤きよあき at 14:13| Comment(0) | マーケティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月12日

初詣に行けなくてもいいの?

大阪市にある天王寺動物園と大阪城天守閣は元日から営業する、というニュースが数年前話題になった。当時の橋下市長の「かき入れ時に休むなんて民間企業ではありえない」というひと言で、営業することが決まった。

これに対し、「正月三が日くらい休んでもいいんじゃない」「職員が可哀想」という意見も出たようだが、それはかなり片寄った意見ではないかと思っている。

では、そんな人たちに問いたい。あなたは、初詣や旅行に行かないのか? 帰省もせずに、三が日の間は絶対に家にいるのか?

神社・仏閣は、年末年始ずっと開いている。そこへ行くための、そして帰省のための電車やバス、タクシーも営業している。お腹が空けば、レストランにも寄りたいだろう。

そこで働く人たちが、みんな休んでしまったらどうなるのか。「昔はみんな休んでいた」と言う人もいるが、大きな錯覚である。休んでいたのは、日常の買い物をする商店やスーパーくらいである。

帰省する人や旅行する人が利用する交通機関や宿泊施設、土産物店は、すべて営業していた。橋下市長の言う「かき入れ時に休むなんて…」である。

儲けることができる時には、しっかり営業して儲ける。それが、客商売の基本であり、商売人の姿勢でもある。

三が日であっても、動物園や観光地に人が来るのなら、営業すべきだろう。それが公務員であっても関係ない。

三が日くらい休みたい。三が日くらい休めば良い。そんな考え方をするのは、仕事がなくなるという危機感を持っていない公務員かサラリーマンである。

暦通り+土曜日も休める人たちは、それが当然だと思い込んでおり、自分たちが休みの日に利用する交通機関や店が営業していることに、無頓着になっている。

自分たちが休みの日に働いてくれる人たちがいるから、遊びにも行けるし、外食もできるのである。すべてが休めば、初詣にも行けない。

「休まず営業することで収入になる」という意識が、公務員やサラリーマンにはない。休んでも、有給休暇で収入が減らないからである。守られているからである。

そんな人たちに、「休めばいいのに」などと無責任なことを言って欲しくはない。生活が掛かっているのに、簡単に休めるわけがない。

商売人となった以上、その覚悟はある。まわりがとやかく言うことではない。

posted by 佐藤きよあき at 14:59| Comment(0) | マーケティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月05日

“ぼったくり商売”に風穴を開ける新葬儀屋。

終活ブームである。人生の最期を理想的なものとするための、事前に行う準備のこと。

自分らしい最後を迎えたい。家族に迷惑を掛けたくない。そんな思いから、生きているうちに、葬儀やお墓の準備をしておく人が増えている。実に意義のあることだと思う。

そんな終活の中で、もっとも大きな問題となるのが、葬儀である。金が掛かり過ぎる。

自分の葬儀のために、やりたいこともやらず、コツコツ金を貯めなければならない、という馬鹿げたことが起きている。

何のために生きているのか。

日本の平均的な葬儀費用は、約200万円弱となっている。この世に未練を残しながら旅立つ費用が、200万円。旅立つのも容易ではない。

なぜ、これほどまでに金が掛かるのか。

ずばり、葬儀屋と坊主の“ぼったくり”である。

私も父を見送ったことがあるので、その悪どさは知っている。看病で疲れ切っているところに、亡くなってすぐ葬儀の準備をしなければならない。

しかも、まったく知らない世界のこと。それを狙っているかのように、葬儀屋は次々と細かな決断を迫る。

どんな式にするか? 棺はどれか? 料理は? 会葬御礼は? 供物は? ………。

疲れと悲しみで、ボーッとなっているところに、マシンガントークのような“売り込み”。

面倒になって、「他の方はどうされていますか?」と聞くと、「ほとんど、こちらをお選びですね」と、やや高めのものを勧められる。

極力冷静になろうとするものの、早く済ませたい思いから、ほぼ葬儀屋の言いなりになってしまう。

その結果、掛かった費用は100万円超。

明細を見ると、そのひとつひとつが常識を逸脱した値段になっている。

棺がいくらするか、ご存知だろうか。一番安くて、5万円弱。高いものでは、数百万円。火葬で灰になってしまうものに、何万円も払わなければならない。

他にも、祭壇、花、遺骨容器など、驚くべき数字が並んでいる。市場原理が存在しない金額だと言える。

こんなことが、なぜ許されているのか。いままで、誰も文句を言ったことがないのか。

大切な儀式は慣習に則ってやらなければならない、という人びとの固定観念を利用した、悪徳商法ではないのか。

それだけではない。寺院への御礼が、これまた怪しい。

お布施と呼ばれ、本来は坊主への心づけなので、いくらでも良いはずだが、相場があると言われる。

戒名をつけてもらうのにもお布施がいる。これがまたまた怪しい。

戒名にも「位」があって、高い「位」の戒名は高くなる。もっとも「位」の低い戒名でも、15〜20万円。高くなると、数百万円。金で地位が買えてしまう。

亡くなってもなお、金がものを言う世界へ行かなければならないのか。ふざけるな! と言いたい。

そんな腹立たしさを静めてくれる葬儀屋が、ここ数年でやっと現れた。

通夜・告別式を行わず、火葬のみを行う「火葬式」なら、16〜18万円でやってくれる。

通夜・告別式・火葬までを少人数の参列者で行う「家族葬」なら、50万円弱。

マシンガントークで、追加を迫られることもない。

これなら、家族に金を残してやれる。あまり迷惑をかけずに旅立つことができる。これこそが、旅立つ者の最後の役割ではないのか。

間違った常識は、正さなければならない。誰もが疑問に思っていることは、誰かが言い出さなければいけない。

よくぞ言ってくれた。新葬儀屋。

posted by 佐藤きよあき at 14:27| Comment(0) | マーケティング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする